ゲロゲロ
ジェン ドブレ!!
今日はクラクフから1時間半のアウシュビッツ収容所に行きました。
今回はアウシュビッツ公認の中谷さんという日本人ガイドの方に連絡を取ってガイドをしてもらいました。
ガイド料は1人40ズオッティー(1300円)
この旅で初めてガイドをお願いしました。
結果的に中谷さんにガイドをお願いして本当に良かったです。
そして自分がいかに知識が無いかを思い知らされました。
正直アウシュビッツについての記事を書くか迷いました。
僕がアウシュビッツについて知ってる事なんて、ヒトラーが作らせた収容所でいっぱい人が殺された。
って事ぐらいです。そんな僕がこの事について書いていいのか?
とか、薄っぺらい内容になったらどうしよ・・・とか考えました。
でも、ガイドの中谷さんの話しの中で、ヒトラーが選挙で当選した背景には選挙に興味を示さなかった人が大勢いたからという事を話していました。
つまり、賛成でも反対でもない中性的な立場の人が結果的に大きな力になってヒトラーを後押ししてしまったそうです。
僕も傍観者ではいけないのかもしれません。
今、僕に出来るのは毎日大勢の人が読んでくれてるこのブログを利用して、情報を発信する事です。
毎日誤字脱字だらけで、文章も低レベルですが・・・
書いてみる事にしました。
多分読みにくいですし、は??みたいな事もあるかもですが、電車に乗ってる時間やトイレに入ってる時間にでも読んで下さい。
これはネットで調べた物と実際に中谷に聞いた話しをまとめたものです。
これを読んで1人でもアウシュビッツに興味を持ってくれる人がいたら嬉しいです。
アウシュビッツ強制収容所とは主にユダヤ人の絶滅を目的として作られた場所です。
アウシュビッツだけでは収容しきれなくなり、少し離れた場所にビルケナウ強制収容所も作られました。
場所はドイツではなくポーランドのオシフィエンチムという場所です。
なぜここに収容所が作られたのか?
ヨーロッパの中心に位置し、鉄道の接続が良い、広い土地の確保が容易
そして情報が漏れないよう人気が少ない場所がここだったのです。
集められたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者です。
その中でもユダヤ人は90%をしめていました。
そしてここで殺された人数は110万人
去年の日本で生まれた新生児の数より少し多いぐらいの数です。
110万の罪のない人が次々と工場の流れ作業のように殺されていったのです。
ヨーロッパ中のユダヤ人がこの列車に詰められてやってきました。
列車を降りたら荷物を預けます。
荷物には後で自分の物だとわかるように名前と住所を書かせます。
でもその荷物が自分の元へ戻ることはありません。
この列車にやって来た人は全財産をこの鞄に詰め込んで来ています。
これを書かせることで、暴動を防いでいたそうです。
荷物を預けたらすぐに選別が行われます。
何を選別するのか?
今すぐ殺される人間と後で殺される人間を選別したのです。
これが選別している実際の写真
医者が選別をしているのですが、生き残れるのは労働力になりそうな男性、人体実験に使えそうな人間(双子など)です。
つまり女性、老人、障害者も例外ではありません。
14歳以下の子供は母親と一緒に無条件に殺されました。
実に75%もの人が列車が着いてすぐに用無しと判断されて『シャワーを浴びる』と伝えられガス室に連れて行かれたそうです。
1つ前の画像の右上に写っているのは、ガス室に向かう行列です。
これが実際に使われていたガス室です。
当時は常に煙突から煙が出ていたそうです。
この中に人を入るだけ詰め込みます。
そして天井からチクロンBという殺虫剤を投げ込みます。
1缶で150人を殺す殺傷能力があります。
この殺虫剤は空気と反応して毒を発生させ、30分近くも、もがき苦しみながら死んでいったそうです。
あまりに詰め込まれ過ぎて、立ったまま死んでたそうです。
そしてすぐ隣には、死体を焼く為の焼却炉があります。
ここで死体を焼いているのは囚人です。
同じユダヤ人がユダヤ人を焼くのです。
ユダヤ人にこのような仕事をやらせた理由には、ドイツ軍の精神的ダメージを軽減する為であったり、焼いているユダヤ人に恐怖を植え付ける為だったそうです。
焼却炉で焼く人間はその仕事をやる代わりに、生きる権利を与えられたのです。
自分の子供や妻、家族がここに運ばれて来たらと考えるだけでゾッとします。
しかし、この仕事をする人も口封じの為数ヶ月で殺されていました。
死体からは金歯も取られます。
金歯は溶かしてただの金として売られたそうです。
と言う事は今もどこかで流通してる可能性があります。
そして残った骨は証拠を残さないために粉末にされて捨てられたそうです。
当時の回収された物が今でも山積みになって保管されています。
クツ
新しい生活をする為に持って来た鍋
義足や松葉杖など
障害者は、連れて来られてすぐに殺されました。
体が不自由で、かわいそうだから楽にしてあげようとドイツ軍は正当化していたそうです。
そもそもこの一連の殺人は、『殺す』ではなく『排除する』という考えだったそうです。
これもドイツ軍の精神的負担を和らげるため
生き残った人達は不衛生で劣悪な環境での生活をしながら過酷な労働をさせられました。
食事は朝コーヒー、昼食は痛んだ野菜のスープ、夕食はパンとバターだったそうです。
当然それだけでは足りません。
なので囚人同士での食料を取り合うケンカも頻繁にあったそうです。
そして労働力として生き残った人でも、2~3ヶ月で死んでしまったそうです。
中には脱走を考えた人もいるそうです。
しかしアウシュビッツの回りには二重で有刺鉄線が張られていて、つねに高圧電流が流されていました。
捕まった場合は、ここでみんなの前で見せしめとして殺され、更に無作為に選ばれた人も一緒に首つりにされ、連帯責任をとらされたそうです。
ではなぜ暴動が起きなかったのか?
ここでは、監視役も囚人だったのです。
ここではあえて、囚人の中に上下関係を作りました。
そうする事で、囚人がまとまって反抗する事を防いだと考えられます。
これは『死の壁』と呼ばれ、ユダヤ人大虐殺に異論を唱えた革命家たち3000人がここで銃殺された死刑場所です。
この花はここで殺されたユダヤ人の親族が、命に変えて異論を唱えた人達に向けられた感謝の花束なんだそうです。
アウシュビッツには「死の天使」と恐れられていた医師がいました。
彼の名前はヨーゼフ・メンゲレ
彼は残酷でヒドい人体実験を繰り返していました。
彼はヒトラーの思想の影響を受けていました。
ヒトラーの思想とはアーリア人(ドイツ人)が世界最高の優れた民族で、それ以外はすべて劣等人種だ。
なかでも、ユダヤ人は最も劣った民族とし、抹殺をするとともに人種民族差別を正当化するというものです。。
メンゲレは人体実験の為に生かした子どもたちに「おじさん」と呼ばれ、慕われていました。
彼は子どもたちに優しく笑いかけ、お菓子をあげたり、車に乗せて収容所の中をドライブする事もあったそうです。
しかし、数日後に子どもたちは解剖台の上に乗せられ、メンゲレの手で実験台にされたのです。
「私のモルモット」メンゲレは収容所の子どもたちをそう呼んだそうです。
メンゲレは容赦なく人体実験を行いました。
男性の睾丸や女性の卵巣に、レントゲン(X線)を当て生殖能力を奪う。
麻酔なしでの手術
生きたままの人体解剖
性器の切除や性転換手術
有害な病原菌や毒物の注入など。
その他にもアーリヤ人(ドイツ人)が優秀な人種と考えられ、アーリヤ人を増やす為に双子を使った実験もしていました。
当初は双子の身体の外観を比較するだけでしたが、彼の実験は徐々にエスカレートします。
健康な双子の眼球を摘出して瞳の観察をしたり、また双子の瞳に絵の具を注射して瞳の色を変える実験なども行ったりしました。
その他にも子供の血液を入れ替える実験で、体中の血液を抜かれて子どもが倒れると、役立たずとしてその場で殺害したそうです。
当時医学では世界でもトップレベルだったドイツ
その医者がここまで変貌してしまう環境がアウシュビッツなのです。
アウシュビッツを見学した後に、バスでビルケナウ強制収容所にも行きました。
ここはアンネの日記のアンネが実際に収容されていた収容施設も残っています。
奥にはドイツ軍が証拠を残さない為に壊したガス室がありました。
ここで何十万人もの人が毎日のように流れ作業で殺されていたんです。
アウシュビッツにはイスラエルから来た若者の集団が何組かいました。
みんな白い服を着ています。
イスラエルはユダヤ人によって作られた国です。
ユーロッパにいた大勢のユダヤ人がここで殺されています。
多分この子達の親戚もここで殺されたという子もいるはずです。
笑っている子もいれば、下を向いて歩く子もいました。
何を思ってここを歩いているんだろう・・・・
その次に収容されていた時に使われていたベッドを見ました。
とてもベットとは言える物ではありません。
こんな狭い、マットも無い所に人が詰めこまれていました。
冬はマイナス30℃にもなる環境で布団もなくただただ耐えるしかなかった事でしょう。
ベッドの木材の間にイスラエルのマークが挟まれていました。
実は、連れて来られたユダヤ人のほとんどはアウシュビッツに来たら二度と帰れないという事をウワサで知っていたそうです。
それでも住む場所が奪われ、行く宛も無くここに来るしか選択肢は無かったのです。
この線路の先が、先ほど写真であった『選別』が実際に行われた場所です。
ここを歩いた人のほとんどは生きて帰れなかったのです。
僕がアウシュビッツに行って1番思った事は、歴史を知る事の重要性です。
今回ここに来た事で人間の過去の歴史について興味を持ったのも事実です。
ここでは色々考えさせられました。
過去の失敗を知り、それを繰り返さないように過去から学ぶ事が今まで生きて来た人間の生きた証になるのかもしれません。
いつもありがとうございます。
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コメント
ありがとうございます
良かったですこの記事
だいすけさん
ありがとうございます。
徹夜して書いてみました。
最後の方はグダグダですが、最後まで読んでくれてうれPです。
突然失礼します。私も先日行ってまいりました。
さて、中谷さんのツアーでは遺体を焼却する施設内部の写真撮影は被害者と遺族の心境を考えて自粛するようにと言われたかと思います。
あなたはこの記事を書いているとき、殺された方、殺した方、あるいはブログを拝見する方、あるいはブログランキングいずれのことを考えていましたか。
ゆたさん
コメントありがとうございます。
中谷さんに写真の自粛を言われて写真は撮っていません。
でもこの事件の悲惨さを伝えたいと思い焼却炉の写真だけネットの素材写真を使用させていただきました。
この記事を書いてる時は殺された方の事を考えていました。
この記事を書いてブログ以外で色々な方から意見を頂きました。
そして気付いたのは、ゆたさんの言うように殺した側や親族の方の事を考えていなかった事です。
亡くなった方の生きた証としてこの事件を1人でも多くの方にブログを通じて伝えようと思って書きました。
しかし気分が良くないと思われた方がいたのも事実です。
今回のような読んでいる方に気分が悪くなるような事がないように以後気をつけます。
ご意見頂きありがとうございました。